東西に共通する古典落語の大半は上方起源だと

Writer: admin Type: iPhone Date: 2019-03-07 00:00
東西に共通する古典落語の大半は上方起源だと言いますが、素朴な疑問ですが、なぜ江戸から上方へはあまり伝わらなかったのでしょう?今日では、桂文太の「贋作シリーズ」のように、上方の落語家で江戸落語を移植しようとしている人もいますから、江戸落語そのものでは上方では受け入れられないにせよ、上方風に焼き直せば、当時でも十分移植できたのではないかと思うのですが。共感した0###少ないながらもありますよ。「桜ノ宮」は江戸の「花見の仇討」をそのまま桜ノ宮を舞台に移植「子はかすがい」は現在の江戸では廃れた、三遊亭圓朝改作の「女の子別れ」という女房が子供を置いて出てゆく演出。五代目松鶴編集「雑誌上方はなし」に掲載されてる物を、六代目が復活口演した。しかし現在の上方では通常の「子別れ」の演出で演じる人の方が多い。「たいこ医者」江戸の「死神」を初代円遊が改作した「誉の幇間」。近年では三代目金馬も演じていた。これを初代桂春団治が演じている。こんなもんだと思いますが、何故上方に当時の江戸落語を輸入しないかと言えば、江戸の小粋な洒落た噺や武士や江戸っ子が主役の噺はあまり受けないし、女郎買いの噺は風習やしきたりが違うのでそれを直すのが面倒だったのかもしれません。だから文太さんの功績は大きいという事ですね。明治期に薩長土肥が江戸に入り、人情噺や小粋な噺、江戸っ子の噺は受け入れらえず、お笑いの多い落語または珍芸が受けたので仕方なく、江戸の噺家たちは上方落語を輸入しました。上方は別に江戸の噺を輸入しなくとも落語家たちは困らなかったんですね。しかし後に漫才が台頭し立場が逆転し、上方落語は衰退してゆくのです。ここで上方の噺家が奮起して、安住せず色々な試みをして置いたらよかったのかもしれませんね、しかし観客が、即笑いにつながる漫才に傾倒し、聞き手に想像力のいる落語は敬遠されているので、なおさら江戸落語を輸入しても聴いてはもらえなかったのかも知れませんね。漫才に追いやられた落語家たちは五代目松鶴をリーダーに吉本を飛び出し、純粋な上方落語を保存のための行動をしましたが、戦争のためこれも壊滅状態となったんですね。ナイス0
###東京の落語家は、東京の粋を理解できない田舎者の客が増えたから、演目の幅を広げなければならなかったが、上方ではその必要がなかったというご指摘は、非常に合点がいきました。現代では、東京人も大阪人も、武士や女郎買いのしきたりを知らないから、東西の垣根は低くなっている(移植しやすくなっている)のかもしれませんね。
###毎度ありがとうございます。他の皆様もありがとうございました。###これはおそらく、明治期~戦前までの、東西の興行の違いによるものじゃないかと思います。上方の芸人は上方の小屋をホームグランドに活動するんですが、東京の芸人はしくじったり食い詰めたりするとすぐ旅興行に出ます。上方落語を最も多く東京に持ってきた三代目小さんも、確か襲名のごたごたで上方に逃げたはずです。そこで覚えた噺を江戸落語に持ち帰りました。それで上方→東京という一方通行が多い気がします。戦後は東西交流が盛んになり、江戸落語の演目が上方に行ったり、上方起源なのにすでに上方では消えつつあった噺を江戸から逆輸入したり、というパターンも増えたのではないでしょうか。ナイス0
###もともと、落語も下りものが重宝されたようです。明治以降は、逆に東京落語から上方落語という噺も少なくないです。ナイス0

 

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